うがい

先日風邪をひいた。まず喉の痛みとしてそれは現れ、次いで鼻のつまりへと姿を変えた(かくいう今も鼻声である)。私は風邪のひきはじめに必ずすることが2つあって、1つはポカレモンを飲むこと、もう1つは熱いお湯で体をあたためることだ。簡単なことたちなのだけれども、効き目は結構ある気がする。

 

それにしても、どうして風邪をひいたのだろう?そういえば、手洗いせっけんがなくなったのと、風邪をひいたのとは同時期であったような気がする。恐るべし手洗いの力。「キレイキレイ」によって私は毎日生かされているのかも知れない。そう思った私は、すぐに手洗いせっけんの詰め替えを買いに行った。

 

因みに、そこでうがい薬も一緒に購入した。うがい薬でうがいをするなんて中学生ぶりで(多分ね)、原液を水で薄めるということも忘れていた。それで、うがいをしてみて思ったんだけど、果たしてこんなに泡立つものであったっけ?

 

ガラゴロガラゴロとうがいをやるのは良いのだが、如何せん泡がすごい。しかもそれらは浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返しており、あちらこちらに飛び散っている。「洋服にうがい薬がついたりしたらやだな」とか考えながらうがいをしているものだから、ただ口をゆすいでいるだけの人のように見えるのが現状だ。どうしたものかな。

 

それと、シンクの一部が青紫色になるということは、デンプン反応が起きているというわけ?

サプライズをするときは

読者諸賢よ敢えて聞こう、サプライズしあってるかい?

 

かくいう私は、最近恋人にサプライズをした。恋人が愛らしいハンドタオルを見ているのを盗み見、「あとで行けなくなるかも知れないよ」と巧みに恋人をトイレへ促したあと、サッと件のハンドタオルを購入した。渡すと恋人はとても喜んでくれ、すべては大団円のうちに幕を引いたかのように思えたが、実は1つだけ後悔したことのある。

 

それは何かと問われると、その渡し方であった。愛らしいハンドタオルを購入するまでは良かったが、如何せんその先を考えていなかった。果たして私はどのように渡せば良いのだ?途方にくれ、戸惑い、地団駄を踏んだ。しかし混乱の渦中にも関わらず、恋人は戻ってくる(トイレがすばやい)。

 

ステキな策を企てることのできなかった私は、着ていたコーチ・ジャケットの内側に慌ててハンドタオルをねじ込み、「さあ行こうか」と焦りを悟られないためにも、慣れないエスコオトをした。ああ どうしよう。

 

歩を進めれば出口の近づく。宇宙的法則に則って、あっという間に我々は出口付近まで来てしまった。サプライズの失敗だけはどうしても避けなければならぬ。そこで私は恋人を呼び止めた。「プレゼント自体はウレシイが、なんじゃそのヘナチョコな渡し方はッ」と罵倒されても宜なるかなと思いつつ、私はあろうことか「じゃじゃーん」という使い古されてすりきれてしまった股引のような効果音とともに、ハンドタオルを取り出して恋人に渡してしまった。

 

しかし恋人は最初に書いた通り、少しの間を置いて、それをうれしそうに受け取ってくれた。罵られて「おともだちパンチ」をお見舞いされずにほんとうに良かった。今回は恋人の日本海溝的深さの懐に包まれたからこそ助かったものの、次はもう少しうまく渡したいなと思う。

形作られてゆく

それぞれの家庭内にルールがある。ルールというと語弊があるやもしれぬが、慣習といったものはどこの家庭にもあり(きっとね)、「それが当たり前である」と思いこんで子どもは成長する。しかし成長の過程で吸収した「当たり前」も、社会に出て様々な人と触れ合うようになると、他のひとのもつ「当たり前」と衝突するようになってくる。それがいわば価値観の相違と呼ばれるもので、恋仲にある男女の喧嘩の主な原因ともいえよう。

 

さて、ここからが本題である。私は「恋人としょうもないことで喧嘩をする」ことにおいて今や世界的な権威を持ち、ご多聞に漏れず価値観の相違がその主な原因となることが多い。最近だと「洗濯」がよく口論の種となる。私は「タオルやくつしたはネットにいれて洗濯する」という価値観を刷り込まれ大人になった。一方恋人は「タオルやくつしたはネットにいれなくてもオッケー」という価値観を持っており、つい洗濯するたびに小言を言ってしまう。

 

私からすると、ネットにいれたほうが洗濯機から取り出すときに見つけやすいし、糸くずもほかの洋服にひっついたりしないし、といった風に良いことのほうが多い気がするんだけど、気のせいかしらん。

 

ただ最近は、恋人も気をつけてくれているのか、タオルをネットにいれてくれるようになりました。

よしなし事をそこはかとなく書きつくれば

今年も残すところあと1ヶ月となった。年末ともなると、人はあれこれ思索に耽る。師が走るとはよく言ったもので、私くらいの立派なオトナともなると、沈思黙考の末「あれもやらねば」「これもやらねば」と次々にするべきことが浮かび上がり、バタバタ走り回らねばならない。踊る阿呆に見る阿呆。同じ阿呆なら踊らにゃ損損。

 

この時期になるときまって悩むのが、手帳についてだ。私は一昨年から「ほぼ日手帳」を愛用しており、数あるカバーの中でも「MOTHER 2」というステキにかわいいゲームをモチーフとしたカバーを2年連続で購入している。それじゃあ今年もそうかと問われれば、素直に首を振れない。私よ私、なにゆえ不毛に愚行する?

 

人は自分の好きなものを他の人に教えたい。それが自分の好きなひとに対してであれば、なおさら教えたい。そういうわけで一昨年、私が購入するタイミングで恋人に「ほぼ日手帳」を勧めた。しかし1年が経過すると、恋人の胸中に変化のあったらしく、「書きたいことが沢山あるのに書けないからいやだ」とパラドックスに苛まれているかと思いきや、気づいたときには無印良品の手帳を手に取っていた。

 

実はと言うと、恋人の使っている無印良品の手帳にじわじわ心惹かれている。私はどちらを購入するのだろうか。どうなるほぼ日。どうするほぼ日。

cocoa

幼き日の思い出というのが私にもある。小学生の時分、日曜日には必ず家族みんなで朝ごはんを食べるという決まりがあった。だいたいが山盛りのフレンチトーストであったのだけれども、その時父親が必ずココアを飲んでいたことをよく覚えていている。コカ・コーラの白くまが散りばめられたデザインのマグカップで、よく使い古されていたように思う。

 

まず250mlの牛乳を小さいナベで温め、頃合いを見計らって森永のココア・パウダーを入れる。粉がすべて牛乳に溶けきったところでコーヒー・クリームを50ml追加しよく混ぜる。そして砂糖を2スプーン加え、塩をひとつまみ。仕上げにホイップクリームをのせれば完成。父親はいつも面倒くさがって自分の分しか作らなかったが、機嫌の良いときなどには(ごくまれに)私の分も作ってくれた。

 

11月も終盤となり、これから本格的に冬が来る。寒さのめっきり厳しくなると、私はきまって父親のココアを思い出す。

何も言わない

「宮島にいます。広島の。」というラインが母親から届いた。ついこの間「ランタンフェスティバルにいます。長崎の。」というラインが届いたばかりである。我が家にはどうやら突拍子もない行動をとるという血が流れているみたいで、かくいう私もそうだ。

 

高校3年生の時分、部活を引退した私は暇を持て余していた。受験勉強にも身の入らず、時間だけが掃いて捨てるほどあった。当時いちおう学習塾に通っており、学校帰りにちょこっと寄って単語の勉強(割にすきだった)をし、気分が乗ればそのまま他の勉強に移っていたが、気分が乗らなければそそくさと帰宅するという勿体無い使い方をしていた。

 

そこでとある日に「これは学習塾に通う意味のあるかな?」と考えた私は「否。断じて否。諸君、なにか異論はあるか。あれば尽く却下だ!」という結論に至り、学習塾を辞めることにした。これはあとから聞いた話だが、両親は私のこの奇行に対して「とうとう壊れたか」と感嘆していたらしい。

 

突拍子もない行動は、親譲りだと思うんだけどな。

喧嘩をするときは

恋人と付き合いたての頃「私たちはあまり喧嘩をしないよね」と話をしていたが、あれから約6年経った現在はどうかというと、結構くだらないこと(当人たちは真剣なのだが)で喧嘩をすることが増えた。

 

先日のことである。ショッピングモールの帰りに、2人とも愛してやまない「餃子の王将」をテイクアウトしようよという話になった。私が電話をかけ、青椒肉絲と餃子を頼んだ。無事に受け取ることのでき、家に着いて、さあ食べようというところで火花は散った。

 

恋人が「あしたの朝に食べる分だ」と言って皿にいくらか盛り、冷蔵庫に入れたのである。初めは気にならなかったが、段々と「もしかして私のほうが食べられる量が少ないのでは」と疑問を抱くようになり、ぶつぶつ考えているうちに怒髪天についてしまった。そこから先の顚末を仔細に書き記すことはしないが、何せお互いに頑固者であり、一歩も譲ろうとしない。争いの渦中にある青椒肉絲はテーブルの上で静かに熱を奪われ、最後には冷え切った2人の関係だけが残った。

 

回顧するに、あまりにも幼稚な喧嘩であったなと思う。ちなみに今はズボンのシワが原因で喧嘩をしているのだけれども。